「家康の遺訓」の2節目は、「不自由を常と思えば不足なし」でしたね
岡崎城址公園に建てられている、東照公遺訓碑

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徳川家康は、とにかく不自由を強いられることが、多かったのです
幼少期から青年期竹千代、後の家康は、6歳から19歳までの、幼少期から青年期に、織田・今川の人質となっていました
青年期までは、思い通りにならない、不自由な、忍耐の生活だったのです
当時、三河松平家は弱小で、今川の庇護を受けるために、竹千代を6歳の時に、人質に出しました
ところが、駿府に行く途中、織田信秀に捕えられ、3年間、尾張の那古野(名古屋)に抑留され、不自由な生活を余儀なくされたのです
その後、今川の人質として、駿府の宮ケ崎の仮小屋で、19歳の青年期まで、不自由な人質生活を送りました
織田信長が、今川義元を桶狭間で破った後も、その同盟者として、不自由な時代が続いたのです
これらの、幼年期から青年期までの我慢は、家康に染み着き、絶対的な価値観となりました
不自由を常と思うとは「不自由を常と思えば不足なし」とは、不自由を常(普通)のことと思うことです
計りのゼロレベルを、不自由に持って行けば、それ以下の不自由は無く、普通の時が、かなりの自由となるのです
ものは考えようなのです
秀吉に臣従した期間信長が本能寺の変で倒れ、秀吉が中国大返しにより、その仇を取り、天下人の名乗りを上げます
家康は、跡目争いで、それに反発した、織田信勝を擁し、小牧・長久手で秀吉軍と対峙します
そして、局地戦で、秀吉に付いた信長側近四武将の一人、池田恒興(いけだつねおき)に打ち勝ちます
その後、秀吉は、三重県久居市の織田信勝の居城を攻めるため、巨大な砦を築き、この戦に勝利します
局地戦とはいえ、秀吉に勝利した家康は、天下取りを目指しても良さそうな所なのですが、ここら辺が彼のすごいところで、まだその機にあらずとして、秀吉の軍門に下り、臣従しました
不自由、つまり常に戻ったわけですね
その後、北条攻めでの勝利で、秀吉は天下統一を果たしました
この時、秀吉軍は総勢22万の大部隊でしたが、その先鋒を務め、箱根山中の山中城を落としたのが、家康でした
江戸移封時代小田原城落城当日、秀吉は、家康と笠懸山(現・石垣山)城で会談し、250万石で、江戸移封を持ちかけました
これは、実力のある家康を、大阪から遠く離れた関東に、封じ込めようという魂胆でした
当時の江戸は、250万石とはいうものの、たいへんな僻地で、大半が海、少ない陸地の多くは雑木林で、農業には適していませんでした
家康は、彼の卓越した情報網で、江戸の地形事情を得ておりました
その上で、恭順の道を選んだのです
石高では、秀吉が200万石なので、天下人より多い石高となりました
恭順の道は、「不自由を常と思えば不足なし」の考え方でしたが、天下人より多い石高に、家康の鋭い直感が働き、後の関ヶ原決戦の多数派工作に役立つのです
とはいうものの、江戸湾の埋め立てから始めた、街づくりは、過酷でした
当時の埋め立ての道具は、鍬(くわ)ともっこが主で、作業効率が悪く、不自由の連続で、忍耐忍耐の毎日でした
この、気の遠くなるようなプロジェクト、江戸湾埋立てにより、江戸は百年の後に、百万超の人口を誇る、世界一の都市に生まれ変わるのです
天下統一後家康は、天下統一が成った、ある夜のこと、家臣たちに向かって、心の中に秘蔵していた老子の言葉を明かしたと言われています
原文:「
知足者富」
読み:足るを知る者は富む
意味:満足することを知っている人間が本当に豊かな人間である
「東照公遺訓」は、家康の直筆ではなく、後世の家臣の伝承であるといわれています
この時の言葉が、「不自由を常と思えば不足なし」の一節を起草した原点と言えるでしょう
同時に、その時、「
仇を報ずるに恩を以てす」という句も説いています
これは後、「東照公遺訓」の
4. 堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え
に、取り入れられました
この話は、後ほど別の項で、詳しく取り上げます
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