「家康の遺訓」第1節は、
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからず」でしたね
岡崎城址公園に建てられた、東照公遺訓碑

(写真をクリックすると、拡大します) 家康は、愛知県三河地方の岡崎に生を受け、幼名を竹千代と言いました
岡崎城址公園に残る、東照公産湯井
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岡崎城址を公園にした岡崎公園の一角に、産湯を汲んだ井戸があり、今も大切に保護されています。
幼少時に母・於大の方と別れ、父・広忠に死なれ、幼くして松平宗家(徳川家)の当主として、まさに、
「重荷を負うて」でした。
少年時代は、東に隣接する強国今川家で、人質として苦労して育ち、岡崎に戻ってからも、その道は平坦ではありませんでした
織田信長の同盟者として戦い、信長亡き後、秀吉の政権になってからも、筆頭大老として秀吉を支え続けました。
そして、やがて自分の手に天下が掴み取れるチャンスが来ることを、自然にまかせ無理をせず、待ちました。
秀吉の死後、そのチャンスが到来、関が原の戦いに勝利し、天下人となったのです。
まさに、
「遠き道を行くが如し急ぐべからず」で、時機到来を待つことによって、天下を手中に収めたのです。
その後、信長・秀吉の長所を取り入れ、その二人の失敗や、自身の失敗を反省し、その知恵を徳川政権に取り入れて、徳川300年の礎(いしずえ)を築きました。
江戸時代後期の平戸藩主・松浦清の随筆『甲子夜話』 [1] に次のような、三大英傑の特徴を、鳴かぬウグイスを題材に、端的に表現した川柳が見えます。「時鳥#川柳」 [2]
(原文のまま掲載)
「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」織田信長
→織田信長の短気さと、気難しさを表現している。
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」豊臣秀吉
→豊臣秀吉の才能豊かな、ひとたらしぶりを表現している。
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」
徳川家康 →
徳川家康の忍耐強さを表現している。
家康は、待って待って、天下が転がり込んでくるまで、じっと待ったのです。
家康嫌いの人は、「彼は無能で、ただ待つことしか出来なかった人だ。天下を取ったのも、天下取りの才能が有ったわけではなく、偶然の産物である」と言う人もいます。
家康は、ただ待っていただけではありません。
全国に情報網をめぐらし、天下の情勢を把握しながら、根回しをし、徳川家内部をしっかりとまとめ、漢方の奥義を窮めて万全の健康作りをし、徳川300年の構想を練りながら、チャンスを待っていたのです。
この気宇雄大さを、今の政治家は見習ってほしいですね。
脚注
[1]
平戸藩主・松浦清の随筆『甲子夜話』 [2]
「時鳥#川柳」
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