アロアロヨシさんが、アルバイトで、親父の会社の手伝いをしていた頃のことです。
ガンクリート工事の最終日、すべてかたずけて、終わったのが夕方の遅い時間でした
もう、1泊しないで、帰ってしまおうということになって、車を運転して帰宅する途中のことでした
家が近くなった、真夜中の国道一号線で、疲れと、もうすぐ着くという気のゆるみから、居眠り運転をしてしまいました
夢の中で車を運転し、前方に歩道橋が見えてきたのです
とっさに、荷台の荷物が、歩道橋に引っかかりそうだと判断し、夢の中で、急ブレーキを踏んで、直前で止まりました
止まったとたんに目が覚めて、
気が付くと、左車線に、少々左を向いて、歩道の手前で、ちょうどうまく止まっていました
道路には、対向車も後続車もなく、まったく静まり返っていました
他のエンジニアたちは、疲れから熟睡しており、そんな危険なことが起こったなどど、まったく知りませんでした
疲れもあったのですが、一番の原因は、家の近くの見慣れた道路で、もうすぐ着くという、気のゆるみでした
そして、この時が、最初で最後の居眠り運転でした
なぜかというと、それ以来、運転や仕事で、もうあと少しという時に、高校の授業で習った徒然草の、「高名の木登り」の1節が、必ず浮かんできて、気を付けるようになったのです
古文の授業の先生は、いつも鼻が詰まっており、喋りながらの呼吸が苦しそうで、聞きとりにくい声でした
それでも、一生懸命に講義してくれ、「古文の内容は、将来、みんなが大人になった時に、必ず役に立つときが来ます」と、確信を持った声で、語ってくれました
感謝です
少々長いですが、原文を引用します
【通釈】を参照しながら、味わって、読んでみてください

【原文】
「高名 (こうみょう) の木のぼりといひし男 (おのこ)、人をおきてて高き木にのぼせて梢 (こずえ) を切らせしに、いとあやふく見えしほどはいふこともなくて、おるる時に、軒 (のき) たけばかりになりて、「あやまちすな、心しておりよ。」とことばをかけはべりしを、「かばかりになりては、飛びおるともおりなむ、いかにかくいふぞ。」と申しはべりしかば、「そのことに候ふ。目くるめき、枝あやふきほどは、おのれがおそれはべれば申さず。あやまちは、やすき所になりて、必ずつかまつることに候ふ。」といふ。あやしき下臈 (げろう) なれども、聖人のいましめにかなへり。鞠 (まり) も、かたき所を蹴出してのち、やすく思えば必ず落つとはべるやらむ。」 [1]
【通釈】 [1]
木登りの名人と評判されていた男が、人を指図 (さしず) して、高い木に登らせて枝を切らせた時に、《高い所にいて》 たいそうあぶなっかしく見えていた間は何も言わないで、おりる時に、軒の高さぐらいの所になってから、「やりそこなうな、用心しておりろよ。」とことばをかけましたので 《わたくしがそばから》「もうこれぐらいの高さになったからには、飛びおりたっておりることができるだろう。どうして 《今ごろになって》 そんなことを言うのか。」と申しました、するとその男は「さあそこでございます。高くて目がくらくらし、枝が折れそうであぶない間は、本人自身が恐れて用心していますから、《わたくしからは》 注意をしてやりません。過失というものは必ず、もう安心だと思う所になってから、しでかすものです。」と答えた。《木登りなんかという》 賤しい身分の低い者ではあるが、《このことばは》 聖人の教訓に一致している。蹴鞠(けまり)の場合も同様で、蹴りにくいところをうまく蹴った後、もう安心だと思うと、必ず蹴りそこなって鞠が落ちるものだと 《その道の人々が》 いっているとかいいます。
仕事でも、趣味でも、もうあと少しで完成という時に、何でもないところで失敗することが、よくありますよね
そんな、もうちょっとという時に、「
高名の木登り」と、となえるのです
失敗しなくなりますよ、不思議と
1月30日にアップした、枕草子「冬はつとめて」に続く、古文シリーズ第2弾となりました
人生の指針となり、生活を豊かに、味わい深いものにする、古文を見直しましょう
ということで、「
アロアロヨシさんの♪古文シリーズ」でした
脚注:
[1] 「徒然草」 第109段 淺尾芳之助、森 通、野村嗣男 共著 日栄社版
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